昔の原稿

法務

書類を整理していて、昔の原稿に出会った。
12年前、ある会報に掲載された雑文である。
読んでみて感じるのは
「なにもかわってない」
社会も自分も!
そんな感慨を込め、あらためて、ここに転載いたします。

「住職雑感〜高齢化社会の風景より」

住職になって、一人暮らしのお年寄りの相談を受けることが多くなった。
これも他人様の家に上げていただいて、仏様の前でお話しさせていただくことの効力かもしれない。

ある日、御門徒の一人暮らしのおばあちゃんのお宅に、お参りに伺うと
「じつは、今朝、変な電話があってね・・・」との相談。
よくよく聞いてみると、どうも「オレオレ詐欺」らしい。
息子家族は都会に離れて暮らすので、突然の怪しげな電話にオロオロと不安になっていたところに、ちょうど住職が訪ねてきたのである。
「気をつけてね、最近、多いらしいから」
不安そうだったので、またかかってきた時の対処法を説明し
「それでも不安ならここに電話して。私が警察に連絡するから」
そう告げて名刺に自分の携帯番号を書いて渡した。

また、別のおばあちゃんのお宅では
「ごめんください」
と玄関に入ると、作業服の男がなにやらパンフレット片手に熱心に説明しているところに出くわした。
私が
「どないしたん?」
と尋ねると男は不機嫌そうに
「じゃあ、また」
といって私をにらみつけて出て行った。
後でおばあちゃんから話を聞いてみると、どうも強引なリフォーム・修理の勧誘だったらしい。
これも最近よくある手口。
「近くに工事に来てるんだけど、外から見たら屋根壊れてるんで親切で教えてあげた。このままだと大変な事になるよ。ふつうなら○○万円かかるけど、ついでなんで△△万円にまけとくから」とのこと。
お年寄りの不安を煽って、不必要な高額の契約を押しつけるのである。
ひどい場合は事前に壊してから声をかけることもあるらしい。

お年寄りの一人暮らしの危うさは、側に相談する相手がいないことである。
そこにつけ込んだ犯罪が近隣でも横行しているようだ。
私が相談受けた中には警察へ通報したり、弁護士を紹介しなければならない悪質な案件もあった。
とにかくまず誰かに相談する事が、被害を未然に防ぐことだけは頭に入れておいていただきたい。

住職への相談事として多いのはやはり「墓」「仏壇」「お骨」である。
どれも「わしが死んだら、若いもんはよう守(も)りせんで・・・」とのご心配からの相談である。
そんなときは、まずじっくり話を伺う事を心がけている。
なぜならお年寄りによる「墓」「仏壇」「お骨」の相談は、自分が死んだ後のことが問題なのではなく、彼らが“今”かかえている“不安”が問題になっているからである。
解決すべきは「墓」「仏壇」「お骨」ではなく、今の“不安”を生み出す環境、つまり財産、健康、人間関係をはじめとしたそのお年寄りを取り巻く全ての要素が上げられるのである。

ところで、最近、気になる店がある。
それは、近所の空き店舗に不定期にオープンする怪しげな店。
店内にはたくさんのスチール椅子が並べられ、壁・ガラス戸にはポスター、長机の上に見本商品を並べただけのいたって殺風景なつくり。
しかし、お年寄りには人気の店らしく、開店日には大勢のお年寄りが詰めかけ、店の前には自転車がずらりと並ぶ。
中では数名の若い店員が来店するお年寄りにじつに愛想よく応対している。
ポスター、商品をみると、健康食品・健康グッズの販売の店のようだ。

実はこの店、業者によると“宣伝講習販売”と称する、いわゆる“催眠商法”または“撒き餌商法”の舞台なのである。
手口は、主に閉店した店舗を仮店舗にし、チラシ等を使って集客、集まったお年寄りにまず卵やパンから日用品や健康食品まで無料または格安で配布する。
そして、それを目当てに何度も来店する人に、やがて高額商品を売りつける。
彼らは一定の期間で商売して、閉店し、また、ほとぼりが冷めた数ヵ月後に開店する・・・を繰り返す。
いろんなパターンがあるらしいが、実際、市内でも同じような店がいくつかの空き店舗に転々と開店・閉店を繰り返している。

先日、お参りに伺った一人暮らしのおばあちゃんのお宅のお仏壇にこの店の商品がお供えしてあった。
私が
「高いもん買わされてへん?」
と心配して尋ねると、おばあちゃんは笑いながら
「わしは大丈夫! その手にはのらんで、心配せんといて」
となかなか達者!
まずはひと安心だが、彼女曰く
「でも・・・楽しくて、ためになって、孫みたいな若いもんと親しく話ができて、ええもんやで」
とまんざらでもなさそう。
さらには
「オマケにタダで物がもらえるし・・・」
と抜け目がない。
しかし、よく聞いてみると、もし万が一、その代償に不要な商品に高い代金を支払う羽目になっても、詐欺だとは思わないらしい。
サービス料とかオヒネリみたいな感覚もあるようだ。
そして、どうも店員も、集まったお年寄りも、実はそのことをお互い承知の上のようなところもある。
売りつけてくる商品にそんな価値のないことは十分わかっているけれど、買うことで若者の喜ぶ顔を見たいとか、ケチと思われたくないとか、嫌われたくないとか、失望させたくないとか、お礼の気持ちとか・・・・ そんな思いでお金を出しているお年寄もいるようである。
お金があって、時間があって・・・そして寂しい、そんなお年寄りのしばしの憩いの場所なのだろうか。
となると、これは一つの娯楽なのかもしれない。
全国展開している大手もあると聞くので、よほどのニーズがあるのであろう。

40〜50年前、市内の旧道沿いの寺々に、日々お参りに向かうお年寄りが大勢いた。
そんな方々を「お参り衆」と呼び習わしていた。
わたしの祖母もそのような一人で、祖母はよく子守がてらに私をお寺参りに連れて行った。
といっても子どもである私は別に本堂でお参りするわけではない。
おとなしくついてきた(?)ご褒美に帰りに駄菓子屋でお菓子などを買ってもらうのが目的である。
いつも同じような仲間と境内で遊びながら、法座が終わるのを待っていた。
懐かしい記憶の中の風景である。
お参り衆・・・今ではこの言葉も死語になってしまったかのようだ。

お年寄りが“不安”に翻弄される根底には「老病死」の“苦”が潜んでいる。
その“苦”から老いの不安、病いの不安、そして死の不安が生じる。
親を看取り、自らもそこそこの年齢になると、誰もがこの不安に直面する。
旧来、お年寄りはそうして寺の門をくぐり自らの行く末を見つめながら聴聞を重ねていたのであろう。
彼らは日々、仏法により心を耕して(Culture)いたのである。
彼らは伝統的風習の継承者であり、高度な文化の担い手であった。
しかし、今、その文化は衰退・消滅しつつある。
その中で現在のように不安を抱えるお年寄りが付け狙われる現状を憂いながらも、その受け皿になりえていないのが既成宗教の現状でもある。
なくしたものの大きさに気づく事、まずはそれが文化再興の第一歩であろう。
しかし、くだんの“撒き餌商法”で、無料の“撒き餌”だけゲットできる友達に誘われた“ウブな”お年寄りが、高価で不要な商品を買わされるようなことだけはどうか勘弁して欲しい。
既成宗教の住職としては忸怩たる思いでこの現状を眺めながら、悔し紛れにそんな愚痴ばかりこぼしている。
皆さんは大丈夫?
不安があったら相手を選んで相談を!

以上が昔の原稿
12年ぶりの読み返してみて・・・
「なにもかわってない」
それどころか高齢化社会の風景はますます殺伐としたものに変わりつつある。
雑感が確信に変わった12年だと気づかされた。

ごえんさん

ごえんさん

走井山善西寺第十五世住職。生命科学の研究者が尊いご仏縁により僧侶に転身。

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