【特集】落語の原点「法話」の世界がおもしろい

特集記事

お寺の法要などで住職さんが行う法話。
最近では、宗派を超えた若手僧侶が法話を披露し、来場者と審査員の投票で「もう一度会いたいお坊さん」を決めるイベント「H1法話グランプリ」も話題となった。法話は仏教の経典にある教えを住職自身の経験なども交え、起承転結をつけて味わい深く伝えるオリジナルの語り。今回、善西寺の住職、矢田俊量さんに法話についてお話を聞いた。

 

法話と漫才とインターネット

語りを通じて人に何かを伝える芸といえば、落語や漫才。その原点は法話らしい。昔、法話はお寺で日常的に聴くもので暮らしのなかにあった。そもそもお寺は地域の交流の場であり、もっと身近な存在だった。

矢田さん:落語の代表的な前座噺「寿限無(じゅげむ)」は「寿限無寿限無五劫のすり切れ・・」と段々と長い名前になってしまうお話です。寿限無とは寿命に限りが無いという意味で、阿弥陀如来の別名である無量寿仏(限りない寿命の仏)と同じ意味です。五劫とは阿弥陀如来が、命あるものすべてを救うという願いを成就するために費やした計り知れない時間を表します。つまり昔の人は日頃から法話を聴き、誰もが阿弥陀如来についてある程度の共通の認識があるから、それがめでたい名前であることを理解し、落語という話芸のネタとして成立するのです。全く知らない話しをネタに組み込まれても庶民的な笑いにはなりませんよね。それくらい仏教は生活に浸透していたんですね。

1箇所に集まり、じっと話し手の声に耳を傾ける。日本にはそのような習慣があったことから落語や漫才に発展したそうだ。善西寺の宗派である浄土真宗では、本願寺の伝道院で本願寺派布教師という資格を認定し、ご法義の伝道教化を担う人材育成を行っている。

矢田さん:法話は話芸的要素もあるので、布教師のなかには、今で言う「推し活」のように、おっかけでお聴聞をするファンがいるような人気の僧侶もいます。またはそういった布教使から口伝で学ぶため、昔は鞄持ちをして学ぶ僧侶もいました。

善西寺では2024年の秋季永代経法要で、人気Youtuber僧侶でH1法話グランプリにも出場した両徳寺(福岡県)の住職、舟川智也さんを講師に迎えた際、静岡や東京からも法話を聴きにきた人もいたという。

矢田さん:H1法話グランプリではないですが、彼はまさに「もう一度会いたいお坊さん」であり、この人の話を聴きたいと願う人がいるのです。ただ、そのきっかけはYoutubeやSNSによる発信にふれたことだそうです。実はこの発信するということ自身すごいことで、実は最近まで法話をオープンにすることはタブー視されていました。

浄土真宗の場合、法話とは釈尊の教えである経典をはじめ、開祖・親鸞聖人が記したお聖教の教えをわかりやすく伝えることが大切である。そのため僧侶が少しでも親鸞聖人の教えにはずれたこと(「異安心」という言葉がある)を伝えてしまうと、批判の対象となる。従って、録音したりそれを外部に共有することには消極的だった。しかし時代はデジタル社会。ネット上で頻繁に法話を発信する住職も増えてきた。

矢田さん:とりくむ僧侶のみなさんはネット上にもうひとつのお寺を持つ感覚だと捉えていて、仏教やお寺に興味を持っていただけるきっかけづくりと考えています。特に仏教と接点の少ない若い世代の方々に伝えることができるのは、インターネットの活用はとても良いことだと思います。

法話は生きるためのヒント

浄土真宗では現世の生命は「仏になるいのちをいただいている」と説く。何か苦しいことがあったとき、仏の教えに救われることもある。しかし人は疑いを持つ生き物。自分と他人を比べたり、常に煩悩に苛まれ、苦しみから逃れられないのです。

矢田さん:信じていたことでも時間が経ち、迷いが出てくると「本当なのだろうか?」と、なることがありますね。だから仏の教えに常に身を浸しておく。法話をお聴聞するということもそのなかのひとつです。

自分で作ったものを信じ切れる人は少ない。それは、人間は不安定だから。阿弥陀仏より賜りたるご信心こそが本物であると信じる。人がつくったもので信じ切れる本物はないと考えるからだ。浄土真宗では「阿弥陀如来の本願を信じ、念仏申せば仏となる」と伝える。

矢田さん:浄土真宗のお寺の構造は他宗派の本堂に比べご本尊などが安置されている内陣より、お参りをする外陣が広くなっています。それは本堂に多くの人が集まってご法話を聴聞するためです。

お寺の外陣に人が集い、境内では子どもたちが遊んでいるという昔の日本の日常。そこには阿弥陀仏に見守られながら穏やかな日々を過ごす地域コミュニティがあった。

矢田さん:みんなでお茶をしたり、居眠りをする人がいたり。みんなで心配もするし、悲しむこともある。情味豊かな法話を聴いて笑ったり、泣いたり。そうやって法話は日常的に語られていました。そして法話を聴く人は、話の意味をすべて理解しなくてもいいんです。仏の教えに身を浸し、少しずつ近づいていく。教えという答えではなく、ここには仏道があるだけです。だからお寺は道場なんですよ。

そして、矢田さんは話を続けてくれた。

矢田さん:どんな人生も死んで終わりなら、誰もが最後には負けで終わります。それでは何のためにこんな苦労をして、終わりある人生を生きねばならないのかを見失ってしまうでしょう。死んで終わりではないから、浄土に生まれ仏と成らせていただくいのちを今いただいているから、今どんな困難にあおうとも、苦が苦のまま苦ではなくなる、それが仏の救いです。仏の救いに遇うことによって、生きる意味を見失うことのないたしかな人生を歩むことができるのです。

先立った大切な人に会いに行ける世界がある。そう自然と思えるのは今もなお、暮らしの近くに、そして受け継がれてきた命の記憶のなかに仏の存在があるからだと感じた。法話に触れることは、そんな大事なことを楽しく引き継いでいくことだと思う。そう考えると、Youtubeでもいいから面白い法話を探してみたくなった。

yusuke.murayama

yusuke.murayama

三重に暮らす旅するWEBマガジンOTONAMIEを運営し、県内各地のディープな魅力を発掘&情報発信しています。職種はライター、グラフィックデザイナー、映像やSNSなど各種プロモーションディレクター。家業である寿印刷工業(津市)の専務です。

関連記事

新着記事

TOP